2011年5月8日
【人生をいかに終えるか】
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本日の一冊は、『老いの才覚』が大ベストセラーとなっている、曾野綾子さんの注目の新書。
※参考:『老いの才覚』
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『自分の始末』とは、これまた刺激的なタイトルですが、人間には必ず終わりが来るのだから、若いうちから始末のつけ方を考えても悪くないと思い、読んでみました。
本書は2010年2月に単行本として出されたものを新書化したもののようですが、内容は、これまでの曽野作品のなかの名言を、自己啓
発風に再編集したもの。
書き下ろしではないのが残念ですが、年老いた方だからこそわかる、人間関係の機微や、生きる上での指針、死を覚悟する方法などが伝わってきて、じつに参考になりました。
あと3年若かったら、絶対に理解できない内容だと思いますが、30代も後半になり、死を意識し始めると、よくよく理解できます。
死を迎える時、どんな人間であるべきか、どんな人生を送れば後悔のない人生になるのか。
『老いの才覚』ほどのインパクトはありませんでしたが、生き方の指針として、参考になる一冊だと思います。
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▼ 本日の赤ペンチェック ▼
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本来の「始末」は、折り目正しい言葉なのだろう。始めがあれば、終わりもあるのが自然でまっとうな推移なのだし、首尾一貫と言えば、それは整った状況を意味すると思われる(新書判のためのまえがき)
肉体と精神の機能の低下は少しくい止めることはできるように思う。それは生活の第一線から、引退しないことである。職を引かないこ
とではない。日常生活の営みを人任せにしないことである(「晩年の美学を求めて」)
末席の楽しさを知るべきだ。末席が一番よくすべてが見える(「中年以後」)
制度と、自らが決める規範とは、全く別のものである。制度は平等を物差しにし、自分が決める規範は、自分の美学を尺度にする(「貧困の僻地」)
信じないことが、節度と愛の第一歩だということを知ったのはもう二十代の初めからである。この原則を守らないと、相手に一方的な想いをかけ、必ずと言っていいほど裏切られて怒らねばならないことになる(「砂漠・この神の土地 サハラ縦断記」)
食べものなどの衣食住が十分あって、安全があって、それによって生きるということはあっても、魂で生きるというような発想が日本にはなくなってきたんではないでしょうか。人は何に人生を捧げるか、という視点がなくなってきたような気がします(「愛のために死ねますか」)
人は与えるからこそ、大人になり、おいぼれではなく青年であり続けるのである(「晩年の美学を求めて」)
英語にセレクションという言葉がある。今の日本の子供たちは、この単語の日本語の意味は「選択・選抜」だとは習うが、「淘汰」という意味もあるとは教わらない(「貧困の僻地」)
死生学を提唱しておられるアルフォンス・デーケン神父は、人間の最期に必要なのは許しと和解だと言っておられる(「貧困の僻地」)
退屈ということは実に偉大なエネルギーの貯蔵庫である(「時の止まった赤ん坊 下」)
それでいい。植えた者がそれを食べねばならぬという約束はどこにもない(「贈られた眼の記録」)
ものの過剰は人間を疲れさせるし、もの一つ一つの存在の意義も見失わせる(「貧困の僻地」)
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『自分の始末』曽野綾子・著 扶桑社
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◆目次◆
1.定年後を輝かせる「新たな仕事」
2.「不純」の大いなる効用
3.どうすれば運命を使いこなせるか
4.現実を受け止められないとき、行き悩むとき
5.問題は「どう生きたか」
6.人生の思いがけない「からくり」を知る
7.遠距離「世間」のすすめ
8.「自分の時間」を管理する知恵
9.ささやかだけれど贅沢な生き方
10.自分なりの「始末のつけ方」
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