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『落語論』堀井憲一郎・著 vol.1828


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【理論もフレームワークもブランドもすべて幻想?】
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昨日、紀伊国屋ホールで講演をした後、書店にも立ち寄ってみました。

ひと通り棚を眺めると、なぜかビジネス書ではないのに妙に心惹かれる本がある。

『落語論』。

ろくに落語も聞かない土井が、なぜかこの本に惹かれ、パラパラとめくっているうちに、いくつかのフレーズに衝撃を受けて購入を決めました。

そのフレーズとは、このようなものです。

「落語を論ずるときに、言葉だけに絞り込むと論じやすい。だからほとんどの落語論が、『落語で語られたこと』をもとに展開されている。残念なことに、その方向で精緻に語られれば語られるほど、落語の根源からずれていく。落語は、常にそういう“近代的知性の分析”の向こう側にいる」

「人は生まれたときから死ぬまで同じ一つの名前で暮らす、というのは歴史的にみて、きわめて特殊な制度である。ふつう、人は一生のうちに何度か名前を変える。それが人間としてふつうだった」

「サゲ(落語の最後のワンフレーズ)の分類は無意味」

なぜこれらの言葉に衝撃を受けたかというと、これらは経営学や書籍が目指したことを真っ向から否定しているからです。

フレームワークや経営理論の確立、ストーリーを使ったマーケティング手法、ブランディング…。

経営が落語同様、その場にしか存在していないものだとすると、おそらくわれわれが正しいと思って消費してきたあらゆる経営理論は目安にこそなれ、意味がないということです。

また、人の生き方を見ても、落語的な考え方で言えば、人が死んだら名前は誰かに継承されなければいけないし、一生ひとつの名前で生きていくなんてナンセンス、ということになります。

人間らしい、あまりに人間らしい世界観。

本書を読んで、これからの経営、そしてビジネス書はこうした人間観を謳っていかなければならないと確信しました。

過去をどんなに分析しても、未来は創れない。

コンサルタントの本にさよならをして、人々が活躍できるリアルな「場」を作るために、リーダーにはぜひ読んでいただきたい一冊です。

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▼ 本日の赤ペンチェック ▼
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落語を論ずるときに、言葉だけに絞り込むと論じやすい。だからほとんどの落語論が、『落語で語られたこと』をもとに展開されている。残念なことに、その方向で精緻に語られれば語られるほど、落語の根源からずれていく。落語は、常にそういう“近代的知性の分析”の向こう側にいる

目の前にいる人たちを何とかしたい、という気持ちが落語そのものなのだ

見えないものの話をするのはむずかしい。近代科学は避けようとする

百年を超えて語り継がれている落語は、言葉が少々違っていても、ストーリーがまったく違っていても、結末を完全に変えられても、そんなことでは揺るがないのだ。)落語は言葉の中には存在していないのである

落語にはタイトルはない(中略)名付けることは、所有することだ。演者ではない聴衆が、ネタを所有しようとして、どうするのだ

人は役割が変わったら、それに見合った名前にしないといけない。面倒かもしれないけれど、それが責務なのだ。落語家はその世界をリアルに生きている

すべての人がそれぞれ独自の「キャラクター」を持ってるというのは幻想だ。キャラクターというのは常に一方向で表される。「怒りんぼ」はいつだって怒りやすい人であり、「陽気で社交的」な人は常に外向きであるとされる

落語は“厄介な存在である人間”をそのまま反映したものである。矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語である

フレーズに神が宿るのは、つねに現在性を抱いてるからであり、ナンセンスの集積だからであり、ただ人のおかしみを描くものだからである

景山民夫はかつて「港区に生まれるのにも才能がいる」と言い放った。そのとおりだ。落語の精神は残念ながらそこにある。落語は、都市中心部以外に住んでいる田舎者が、どうしても嫌いなのだ

演者がめざすところは「自他の区別をなくす」ということにある。自他の区別に頓着しなくなれば、不思議な空間を共有しやすくなるのだ

インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡を取れようとも、人間一人の大きさは変わらない

落語が繰り返し聞けるのは、落語が歌であるからだ

もっとも大事なのは気である。客の気を受けて立ってそのうえ圧倒するような気を発せられるかどうか。うまい落語を演じるには、人
としての圧倒的な強さが必要

芸人は、自分が陰なのか陽なのか自覚していることは大事である

落語の評論は、すべて嫉妬から生まれる

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『落語論』講談社 堀井憲一郎・著
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◆目次◆
第1部 本質論
第2部 技術論
第3部 観客論
あとがき

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