『下山の思想』五木寛之・著 Vol.2724


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【日本の下山はうまくいくのか?】
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昨年末に入手しながら、これまで読むことを躊躇していた本。それが本日の一冊『下山の思想』です。

タイトル、まえがきを読んで、すぐに「これは37歳の今、起業家が読むべき本じゃない!」と思い、閉じてしまったのですが、やはり知的好奇心が勝り、読むことになってしまいました。

読んでみたところ、確かに内容は暗い。バラ色の未来なんてどこにも書かれていない。経済に関することでいえば、ほぼ皆無です。

著者曰く、「登山という行為は、頂上をきわめただけで完結するわけではない。私たちは、めざす山頂に達すると、次は下りなければならない。頂上をきわめた至福の時間に、永遠にとどまってはいられないのだ」。

しかしながら、本書を読んでいると、これから経済に何が起ころうと、生きることに関しては、前向きになれる気がするのです。

「神の御前に、それにふさわしい生きかたをめざせ」としたクラーク博士のメッセージの解釈、殺生をし、人を裏切っても生きなければならなかった当時の人々を救った法然の愛、さらには、「何かを行うことと、何かを思うことは、両方とも人間的な行為である」と述べ、郷愁の素晴らしさを説いたラスト…。

なるほど、下山の時代にもそれなりの生き方があるものだと感心させられました。

そして、これはおまけですが、「真実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる」としながら、トンデモ本の効用を説いています。

いわゆる専門家の「予言」や「分析」の類に疲れたら、バランスを取るために読んでみるといいでしょう。

最終章「ノスタルジーのすすめ」が、いかにも過去のエッセイの寄せ集め、という印象を受けるのがマイナスですが、そこを差し引けば、じつに興味深い内容。

これからの10年、20年を憂鬱に過ごさないために、また今後流行るモノや思想を見極めるために、ぜひ読んでおきたい一冊です。

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▼ 本日の赤ペンチェック ▼
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「民」という字の語源には、残酷な意味がある。『漢字源』によれば、<目を針で刺すさまを描いたもので、目を針で突いて見えなくした奴隷をあらわす。(中略)物のわからない多くの人々、支配下におかれる人々の意となる>

上昇するということは、集中するということだ。これまでこの国は、集中することで成長してきた。戦後六十数年、私たちは上をめざしてがんばってきた。上昇する。集中する。いわば登山することに全力をつくしてきた(中略)登山という行為は、頂上をきわめただけで完結するわけではない。私たちは、めざす山頂に達すると、次は下りなければならない。頂上をきわめた至福の時間に、永遠にとどまってはいられないのだ

私たちの再生の目標は、どこにあるのか。何をイメージして復興するのか。それは山頂ではない、という気がする。私たちはふたたび世界の経済大国という頂上をめざすのではなく、実り多い成熟した下山を思い描くべきではないか

「少年よ、大志を抱け」というクラーク先生の言葉は、私たちの世代には耳になじみのある声である。しかし、実際にクラーク氏は、それだけを言ったわけではなさそうだ。彼の考える「大志」とは、末は博士か大臣か、といった出世主義をめざす生きかたではなかったはずである。そこにはキリスト教文化にもとづく人間観、文化観をはっきりと見てとることができる。神の御前に、それにふさわしい生きかたをめざせ、と熱烈なクリスチャンであるクラーク先生は若者たちをはげましたのだろう

すごいことというのは、相当な無理をしなければできないことである。そして、当然のことながら、ずっとすごいことを続けることはできない

引揚げという修羅場のなかで、途中で倒れずに生きて帰った人間には、みな見えない刻印がある。それは生き残り、という刻印だ

山に登る、ということは、三つの要素があると思う。一つは、山に登る、こと。二つ目は山頂をきわめること。三つは、下山すること

黒か白か、善か悪か、という世界は、すでに失われてしまっている

真実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる。堂々たる真実などはない。「トンデモ本」と称される本のなかに、大事なことが隠されている。それがおもしろくて私たちは「トンデモ本」を手にするのだ

何かを行うことと、何かを思うことは、両方とも人間的な行為である。未来を夢みて心を躍らせることと同じように、人は過去をふり返って思いにふける。そのどちらにも優劣はない。共に私たちの人生の確かな一部ではあるまいか

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『下山の思想』五木寛之・著 幻冬舎
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◆目次◆

いま下山の時代に
下山する人々
いま死と病いを考える
大震災のあとで
ノスタルジーのすすめ

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